トーク:있다

最新のコメント:5 年前 | 投稿者:TAKASUGI Shinji

있다の品詞についてですが、ネット上にある二つの辞書(NAVER일본어사전とDaum일본어사전)には形容詞と記述があり、私の手元にある紙の辞書には存在詞と記されております(계시다についても同様です)。なので形容詞と扱われることはあるようです。 --M-30722 (トーク) 2018年8月4日 (土) 14:50 (UTC)返信

この韓国国立国語院の回答[1]によると、있다は、伝統文法では存在詞、現在の学校文法では形容詞、国立国語院の「標準国語大辞典」では語義により動詞、形容詞とされており、学者の間でも議論が続いている問題だそうです。--Ryota7906 (トーク) 2018年8月5日 (日) 02:37 (UTC)返信
この品詞に関して学者の間でも議論がされているのですね。学者の間でも結論が出されていない問題について我々が手出しすることは難しそうなので、品詞については一旦このままにしておこうと思います。 --M-30722 (トーク) 2018年8月6日 (月) 14:09 (UTC)返信
標準国語大辞典で 있다/계시다 を動詞とし 없다 を形容詞とするのは、命令形の有無によるものです。 — TAKASUGI Shinji () 2018年8月6日 (月) 15:09 (UTC)返信
標準国語大辞典では、있다の品詞は動詞だけでなく形容詞ともされています(むしろ形容詞に分類されている語義のほうが多い)。また命令形がないと思われる「時間の経過」の語義は、同辞典では動詞扱いです。一部語義に命令形があるという理由で全体を動詞に分類し、そうでなければ形容詞と分類するのは、何か他に出典や根拠のようなものがありますでしょうか。--Ryota7906 (トーク) 2018年8月6日 (月) 20:32 (UTC)返信
例えば [2] にあります。なお活用が同じにもかかわらず 있다 を動詞と形容詞に分けるのは奇妙なので、折衷案なのかもしれません。 — TAKASUGI Shinji () 2018年8月6日 (月) 21:07 (UTC)返信
すみません。趣旨が伝わらない書き方になってしまいました。お聞きしたいのは、있다の品詞を、語義を全てひっくるめて動詞とする根拠のことです。そのような立場からの主張を記した出典はありますでしょうか。--Ryota7906 (トーク) 2018年8月7日 (火) 05:35 (UTC)返信
유현경の論文「‘있다’의 품사론」によると、있다の品詞に関する学説は
  1. 存在詞とするもの
  2. 動詞と形容詞に分けるもの
  3. 形容詞とするもの
  4. 動詞でも形容詞でもないとするもの
の4つがあり、유현경自身は形容詞に分類し、動詞的用法は特殊なものとしています。Ho-Min Sohn の The Korean Language では動詞でも形容詞でもあるとしています (上記2と同じ)。わたしは動詞に修正しましたが、品詞1つだけを選ぶなら形容詞が良さそうです。直しておきます。 — TAKASUGI Shinji () 2018年8月8日 (水) 00:42 (UTC)返信
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