「七歩の才」の版間の差分

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[[Category:故事成語]]
[[七]][[歩]]の[[才]](しちほのさい)
#[[詩章]]の[[才]]の[[すぐれる|優れ]]ていること。[[w:魏 (三国)|魏]]の{{ruby|[[w:曹植<sup>(|曹植]]|そうち / そうしょく)</sup>}}が、七歩進む間に詩を作ったとの[[故事]]から<ref>{{書誌・大日本国語辞典|2|908|457}}</ref>。
#:其より後、詩は捲[[盛唐]][[波瀾]]先'''七歩才'''、文は漱{{w|漢}}[[w:魏 (三国)|魏]][[芳潤]]、諳[[万巻]]書玉しかば、[[w:貞観 (日本)|貞観]]十二年三月二十三日[[対策]][[及第]]して自詞場に折桂玉ふ。(『{{w|太平記}}』巻12・大内裏造営事付聖廟御事)
#::それ(幼少時に五言絶句を作って見せたこと)以後、(菅少将は)詩では盛唐時代の詩文にも勝り、'''七歩の才'''と謳われた曹植をも凌ぎ、文章では{{w|漢}}や[[w:魏 (三国)|魏]]の美文を学び、万巻の書を暗記なさるほどだったので、貞観十二年({{w|870年}})三月二十三日、対策(官吏登用試験)に合格し、[[文壇]]にその才覚を現されたのです。
====出典由来====
『{{w|世説新語}}』[[s:zh:/世說新語/文學|上巻下・文学第4]]
:;【白文】
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::[[帝]]、[[ふかし|深く]]{{おくりがな2|慚|は|づる|はづ}}[[いろ|色]][[あり|有り]]。
:;【現代語訳】
::([[w:魏 (三国)|魏]]の)文帝({{ruby|{{w|曹丕}}|そうひ}})が、ある時(弟の)東阿王(曹植)に対し、七歩あるく間に詩を作るよう命じ、作れなければ極刑に処すると言った。(東阿王は)曹丕の声に応じてたちどころに詩を作って言った、
:::「豆を煮て羹を作り、味噌を漉して汁を作る
:::豆殻は釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く
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:;【補説】
::詩中の「豆」は曹植を、「萁」は曹丕を暗示している。
::曹丕<sup>(そうひ)</sup>は三国時代の[[w:魏 (三国)|魏]]の初代皇帝で、曹操の子。同母弟の曹植を幼少時から妬んでいた。上記の逸話によれば、曹丕は深く恥じ入ったというが、その後も曹丕は生涯にわたって曹植を迫害し続けた。
::曹植が作ったこの詩を「七歩の詩」と通称する。『{{w|文選}}』[[s:zh:昭明文選/卷60|巻60]]、『{{w|初学記}}』[[:s:zh:初學記|巻10]]、『{{w|蒙求}}』[[w:zh:蒙求|下巻]]、『{{w|太平御覧}}』[[s:zh:太平御覽/0841|巻841]]などに引用されているが、それぞれに異同がある。<ref>目加田誠『{{w|新釈漢文大系}} 76 世説新語 上』 {{w|明治書院}}、1975年1月25日、308ページ。</ref>
[[Category:由来 世説新語]]