「論語読みの論語知らず」の版間の差分

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;[[w:論語|論語]][[読]]みの論語[[知]]らず(ろんごよみのろんごしらず)
# [[論語]]を読んだが[[内容]]を[[理解]]していない人。転じて、知ったような顔をしているが、物事の[[本質]]を理解していない、ということのたとえ。
#: 親父尤もと{{おくりがな|点頭|き|うなずき}}子息を呼び付け、汝学問立をして、商売の道を脇にするのは大きなる誤り、其上儒道を学ぶ者が、夕べも茶屋へ行きて夜半八つに帰り、己れが酒機嫌に任せ、湯の水のと寝て居る家来共を起し、たわけを尽すが儒者の教へか、'''論語読みの論語知らず'''め、重ねて書物を止にして、帳合を大事に掛けよと、額に皺を寄せて叱からるゝ詞の下から、子息は又物知顔を止めず、父為<sub>レ</sub>子隠子為<sub>レ</sub>父隠直在<sub>二</sub>其中<sub>一</sub>といふは孔子の語なり、父の罪をば子として隠し、子の罪をば父として隠すは、親子自然の道理にして、人の心の至極せる所なり、道理に従ふを直とす、然るに今手代大勢聴く前にして、茶屋狂ひする子の罪を顕はし玉ふは道理に背むけり、如何んぞ直とせんやと云へば、親父苦々しい顔にて、猪口か皿か知らぬが其の陳ぷん漢ぷんが家業の妨げじや、仮名で算盤稽古召されよと、教訓を致されぬ、(世間子息気質)
#:[[畢竟]]この輩の学者といえども、その口に講じ、眼に見るところの事をばあえて非となすにはあらざれども、事物の是を是とするの心と、その是を是としてこれを事実に行なうの心とは、まったく別のものにて、この二つの心なるものあるいは並び行なわるることあり、あるいは並び行なわれざることあり。「[[医師の不養生]]」といい、「'''論語読みの論語知らず'''」という諺もこれらの[[いい|謂]]ならん。ゆえにいわく、人の[[見識]]、[[品行]]は[[玄理]]を談じて[[高尚]]なるべきにあらず、また[[聞見]]を博くするのみにて、[[高尚]]なるべきにあらざるなり。([[w:福沢諭吉|福沢諭吉]] 『[[w:学問のすすめ|学問のすすめ]]』)