「衆寡敵せず」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ofudo (トーク | 投稿記録)
編集の要約なし
成語の出典を追加
1行目:
{{DEFAULTSORT:しゆうかてきせす しゅうかてきせず {{PAGENAME}}}}
==日本語{{jpn}}==
[[Category:{{jpn}}]]
==={{idiom}}===
[[Category:{{jajpn}}_{{idiom}}]]
[[Category: 日本語 慣用句]]
'''[[衆寡]][[敵]][[する|せず]]'''([[しゅうか]][[てき]]-)
#[[多数]]に対して[[少数]]では[[かちめ|勝ち目]]がない<ref name="daijiten13_417">{{書誌・大辞典(平凡社)|13|417|214}}</ref>。「[[衆]]」は「多数」、「[[寡]]」は「少数」の意。
#(軍事など) [[すくない|少ない]][[人数]]では[[大勢]]に[[かなう|かなわない]]こと。
#:摂津源氏有行綱者焉、与其謀。已而度'''衆寡不敵'''、自告清盛。({{w|頼山陽}}『{{w|日本外史}}』[[s:zh:重訂日本外史/卷之二|巻2・源氏正記 源氏上]])〔1827年〕
#: 剣豪将軍として名高かった将軍[[w:足利義輝|足利義輝]]が[[w:松永久秀|松永久秀]]の軍勢に襲撃された際に、自らの周囲にあまたの名刀を突き立て、刀を取り替えつつ奮戦したが、''衆寡敵せず''、殺害されたという故事があり、多くの時代小説等において取り上げられていることが認められる。([[w:東京地方裁判所|東京地方裁判所]] 裁判長[[裁判官]] [[w:三村量一|三村量一]]ほか [http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010;jsessionid=8E97AB6E7F4EE8BC5899B29663CC59CF]2004年12月24日判決)
#::[[摂津]]の[[源氏]]に[[w:多田行綱|行綱]]なる[[もの|者]][[あり|有り]]て、其の{{ふりがな|謀|はかりごと}}を{{ふりがな|与|とも}}にす。{{おくりがな2|已|すで|にして|すでにして}}'''衆寡敵せざる'''を度り、[[みづから|自ら]][[w:平清盛|清盛]]に[[つぐ|告ぐ]]。
 
#:::摂津の源氏に{{w|多田行綱}}という者がいて、([[平家]]討伐の)陰謀に参画していた。しかし、源氏の兵力では平家にかなわないと考え、[[みずから|自ら]](平家の領袖である){{w|平清盛}}に陰謀を密告した。
#:[[日本]]軍は[[かべ|壁]]に[[よる|拠っ]]て{{ふりがな|突喊|とっかん}}して[[くる|来る]]{{ふりがな|明|みん}}軍に[[鳥銃]]を[[あびせる]]。明軍{{スル|死}}[[もの|者]][[おおい|多い]]が、[[さすが]]に屈せず{{ふりがな|屍|しかばね}}を[[ふむ|踏ん]]で[[城壁]]を{{おくりがな2|攀|よ|じる|よじる}}。日本軍[[刀槍]]を{{おくりがな2|揮|ふる|っ|ふるう}}て[[防戦]]に[[つとめる|努める]]けれども、'''衆寡敵せず'''[[内城]]に[[しりぞく|退い]]た。({{w|菊池寛}}『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1362_36749.html 碧蹄館の戦]』)
#: [[剣豪]]将軍として「[[なだかい|名高かっ]]た将軍[[{{w:足利義輝|足利義輝]]}}[[{{w:松永久秀|松永久秀]]}}[[軍勢]][[襲撃]]された際に、[[みずから|自ら]][[周囲]][[あまた]][[名刀]][[つきたてる|突き立て]][[かたな|]][[とりかえる|取り替え]][[つつ]][[奮戦]]したが、'''衆寡敵せず'''、[[殺害]]されたという[[故事]][[ある|あり]][[おおく|多く]][[時代小説]][[において]][[とりあげる|取り上げら]]れていることが[[みとめる|認めら]]れる。([[{{w:東京地方裁判所|東京地方裁判所]]}} 裁判長[[裁判官]] [[{{w:三村量一|三村量一]]}}ほか [http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010;jsessionid=8E97AB6E7F4EE8BC5899B29663CC59CF]2004年12月24日判決)
===={{transpron|jpn}}====
'''しゅ↘ーかて↗きせず'''<ref name="daijiten13_417"/>
===={{rel}}====
====={{syn}}=====
* [[寡は衆に敵せず]]、[[多勢に無勢]]
====出典====
『{{w|三国志}}』[[s:zh:三國志/卷11|巻11・魏書11・袁張涼国田王邴管伝・張範伝]]
;:【白文】
::董卓作亂、承欲合徒眾與天下共誅卓。承弟昭時爲議郎。適從長安來、謂承曰、「今欲誅卓、'''眾寡不敵'''。且起一朝之謀、戰阡陌之民。士不素撫、兵不練習。難以[[成功]]。卓阻兵而無義、固不能久。不若擇所歸附、待時而動。然後可以如志」。承然之。乃解[[印綬]]、閒行歸家、與範避地揚州。
;:【訓読文】
::{{w|董卓}}[[乱]]を{{おくりがな2|作|な|す|なす}}や、[[w:張承 (後漢)|承]]、徒衆を[[あはす|合はせ]]て[[天下]]と[[ともに|共に]]卓を[[誅]]せむと[[欲]]す。承の[[おとうと|弟]]・昭、[[ときに|時に]][[議郎]]たり。{{ふりがな|適|たまたま}}[[長安]]{{おくりがな2|従|よ|り|より}}[[きたる|来り]]て、承に{{おくりがな2|謂|い|ひ|いふ}}て[[いはく|曰く]]、「[[いま|今]]卓を誅せむと欲するも、'''衆寡敵せず'''。{{おくりがな2|且|か|つ|かつ}}[[一朝]]の{{ふりがな|謀|はかりごと}}を{{おくりがな2|起|おこ|し|おこす}}て、{{ふりがな|阡陌|せんぱく}}の[[たみ|民]]を[[たたかふ|戦は]]しむ。[[士]]、[[もとより|素より]][[撫]]せず、[[兵]]、[[練習]]せず。[[もって|以て]][[功]]を[[なす|成す]]こと[[かたし|難し]]。卓、[[兵]]に{{おくりがな2|阻|よ|り|よる}}て[[義]][[なし|無く]]、{{おくりがな2|固|もと|より|もとより}}[[ひさし|久しく]]すること{{おくりがな2|能|あた|は|あたふ}}ず。[[帰附]]する[[ところ|所]]を[[えらぶ|択び]]、[[とき|時]]を[[まつ|待ち]]て[[うごく|動く]]に{{おくりがな2|若|し|か|しく}}ず。[[しかり|然る]][[のち|後]]に以て[[こころざし|志]]の[[ごとし|如く]]ある{{おくりがな2|可|べ|し|べし}}」と。承、[[これ|之]]を然りとす。{{おくりがな2|乃|すなは|ち|すなはち}}[[印綬を解く|印綬を解き]]、[[間行]]して[[いへ|家]]に[[かへる|帰り]]、[[w:張範|範]]と{{おくりがな2|与|とも|に|ともに}}地を{{w|揚州}}に[[さく|避く]]。
::【現代語訳】
::{{w|董卓}}が[[騒乱]]を起こすと、[[w:張承 (後漢)|承]]は[[徒党]]を[[糾合]]して天下の人々と共に董卓を[[誅滅]]しようとした。張承の弟の張昭は当時議郎の職にあったが、たまたま長安からやって来ており、張承に言った、「今、(あなたは)董卓を誅滅しようとしておりますが、多数と少数では相手になりません。しかも、唐突に計画を思い立ち、[[あぜみち|あぜ道]]で働く[[農民]]らを([[徴兵]]して)戦わせようとしております。(あなたは)[[平素]]より[[将校]]らを[[いたわる|いたわっ]]てきた訳でもありませんし、[[兵卒]]が[[訓練]]されている訳でもありません。これでは、[[成功]]を収めることは困難です。董卓は兵力を{{おくりがな2|恃|たの|み|たのみ}}にして[[道義]]がなく、(権力者の地位に)長く留まれるはずがありません。(あなたに)従う者を[[選抜]]し、[[時機]]を待って行動するのが適切です。そうすれば、いずれご希望通りになることでしょう」。張承は、この意見を正しいと考えた。そこで、[[官職]]を辞して[[ひそか|密か]]に[[故郷]]へ帰り、{{w|張範}}と共に揚州へ[[避難]]した。
==={{trans}}===
*[[{{eng}}]]<!--英語-->: be {{t+|en|outnumbered}}
 
==脚注==
 
<references/>
==={{trans}}===
*{{eng}} be {{t+|en|outnumbered}}