ご挨拶 編集

ShikiHでございます。日頃は同名にて、ウィキペディアで活動しています。ウィキペディアのある記事が切っ掛けとなって、こちらへ参りました。ウィキのプロジェクトはそれぞれにルールがあって、その理解は新参者にはなかなか難しく、お叱りを受くべき点もあまたありましょう。とは言うものの、私のように高校以来フォーマルな国語教育を受けていない者にとっても、問題のある記事がみつかります。校正ばかりの編集で新しい記事を書いてないとのご批判もございましょうが、ご寛恕のほど、宜しくお願いいたします。

普段の活動場所はウィキペディアであってウィクショナリは眼中になかったのですが、私の行為を「国語的経緯を無視した弾圧」と発言した人がいたので、いささか腹をたてました。それならばとウィクショナリにやってきて、あちこち見まわした結果、私もその発言者に対して言います。あなたの編集は「国語の運用と国文法に対する反逆」であると。

私は古文・漢文・国文法を高校で学んだきりですから、私に間違いを指摘されるようではいけません。期末試験ならば参考文献は見られないし、時間も限られているから、結構間違うのは当然。しかしウィクショナリへの投稿はそうではないのだから、ちょっと辞書を見てくださればよいのに。英和辞典はまだ使うと思ってとっといたけど、古語辞典は卒業の時に捨ててしまったとか。ま、ありがちなことではありますが、ネット上にも無料の古語辞典はありますから、ちょっと見て下さればありがたく思います。

部首について 編集

最近の編集での字の部首について、酉なのか鬼なのかをめぐって数回の編集がなされました。漢和辞典には両様があるようです。現代の大部分の辞書は、部首については基本的に康煕字典によっていますから、康煕字典を守るならば酉。ではなんで鬼とする辞書があるのかを愚考して、以下のごとし。

康煕字典は字の形をみて200以上の部首を立てて字を分類している。とはいうものの漢字はかなりのものが2パーツ以上の部分を合成して出来上がっている。その場合どのパーツに注目するかというと、意味である。すなわちのところには樹木やその関係を意味する字が、またのところには金属とその関係を意味する字が並ぶ。このことは日本語話者に広く知られているので、その方針を貫くのが字典として使いやすい。いま特に漢語に詳しいわけではないShikiHのような読者を想定すると、彼は次のように考えるだろう。の字を見るにその声と義は現代の日本語で<シュー、みにくい>、の字は<ユー、とり >、の字は<キ、おに>。「とりがみにくい」「おにがみにくい」を比較すると、「おにがみにくい」の方が自然だから、部首はと考えるだろう。また意味を知らず音の<シュー>を頼りに検索する場合は音が似てないほう、すなわちやっぱりが部首だと考えるだろう。そうであるならばこの漢和辞典では部首をとするのが、読者のためである、と。

上のような考え方は悪くないとは思いますが、ただウィクショナリのように大勢が共同して一つのものを作ろうとするときには、合意が得られにくいと思うので、康煕字典の部首に従うのが簡便だと思います。また最近の編集に確かあったと思うのですが、「ふゆかんむり」と「なつあし」について、混同すな区別せよという編集が管理者により行われたと記憶しています。であれば、康煕字典に従うというのが方針かと思われます。--ShikiH (トーク) 2015年5月21日 (木) 08:01 (UTC)

小春日和 編集

最近、ある暖かな日に小春日和と言った人がいたので、ちょっと気が早いのではなかろうかと思った。いにしえは知らず、近頃では小春とは旧暦10月、初冬のころのこと。平均的には新暦とはひと月違うので、新暦11月ごろ以降が小春日和ではないかと思った。しかし青空文庫で小春日和の用例を確認したところ、晩秋の例がみつかるので、まあ今頃から使ってもおかしくはないと判断した。小春の意味と、小春日和の小春とは多少のずれがあるようだ。それでかまわない。

小春日和とは小春の日和でなくてはならないと考える人たちがいるだろうが、わたしはその意見には反対である。複合語においては、各成分は元の語義から離れている場合がある。例えば「回転寿司」。回転寿司で寿司は回転しているだろうか。東京都心をぐるっと回る山手線は都心を回転しているとは言わない。周回するのみ。回転寿司も同様である。複合語においてはこのような乖離は珍しいものではない。山猫は猫ではなく、洋琴は琴ではない。

さて、ウィクショナリの小春日和の語釈では「冬の前(小春)の、穏やかで暖かい日々(日和)」だった。これには難がある。小春日和がそういう意味だとしても、それを根拠に小春が「冬の前」を意味するなんて言えないと思う。小春日和の語釈の中で「小春」を使うからいけないのだ。(2015年10月)

(付記)今日、都筑道夫を読んでいたら「小春日和がつづいて、おだやかな年の暮れだと思ったら」というのがあった。気が付いた中では最も時期が遅い例である。(2015年11月)
(その2)新しいところでは、石田衣良『西一番街ブラックバイト』(2015年1月、オール読物)に「十二月にはいったばかりの平日だった。日ざしはぽかぽかと生ぬるく、さして寒さも感じなかった。もう十一月ではないから小春日和とはいえないかもしれない」というのがありました。しかし執筆されたのが2014年だとすると新暦12月1日は、私の計算が合っていれば、旧暦10月10日だから、12月に入ったばかりは小春です。しかし一般的には、小春は旧暦10月だから新暦11月が小春というように考える人が多いのだろうと推測されます。(2016年12月)

白頭掻更短 編集

杜甫の『春望』であることは、どなたもご存じだろう。訓読は、「白頭掻かけば更に短く」ですが、「みじかく」とはどんな意味でしょうか。「白髪頭をかいていたら、髪の毛が切れてみじかくなった」。まさか。普通に考えれば「髪の手入れをするために櫛をいれると、この白髪頭の毛髪はなんとすくないことよ」というような意味でしょう。つまり「みじかく」と訓で読んでもその意味は「とぼしい」というよなこと。ここに字訓と訓読みの乖離が見られます。

字訓はその昔、そのときどきの最適な訳語を、たとえば経文の余白にちょっと書き込んだようなもの。後に日本語が漢字仮名交じりの表記で書かれるようになると、ある訓読みには専らある一定の漢字が使われる傾向があらわれて、定訓のようなものが発達しました。訓読みの成立です。訓読みは字訓とは異なる経過をたどりました。「白頭掻更短」はよみあげるときには「みじかく」。でも意味は「とぼしい」。ウィクショナリの字義には「とぼしい」と書くが、訓読みに「とぼしい」とは書かない。それでよい。こういう意識って、高校の漢文の時間に先生の解釈を聞き、漢和辞典を引くようになれば自然に身に付くはずです。この二つの区別をせず、やたら訓読みを書く人に是非お聞きしたい。なぜ高校で教えることに逆らうのですか? なんで漢和辞典にさからうのですかと。

ああ、すいません。いま「短」の記事を読んだがもめてないじゃないか、とおっしゃる方。あくまで字訓と訓読みの例として取り上げたものであって、むしろ、もめてないものを選びました。ところで今気づいたのですが、そうすると「短髪」ってどういう意味だろうか。日本語では「みじかいかみ」ですが、漢語では「とぼしいかみ」を意味する可能性があります。調べたところ『字通』に「短い髪。老年」とありました。