トーク:よたか
夢野久作の引用について
編集ShikiHでございます。語釈2に夢野久作の引用があります。これは語の用例なのでもちろんここに書いて構わないのですが、実際の江戸の様子を正しく表しているかと言うとかなりの疑問があります。夢野が新聞記者時代に関東大震災後の東京に取材したものですが、また夢野自身も大いに疑問を感じて書いています。記事本文よりも少し長く引用を示すとわかります。
又或る通人はこう云った。「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町、柳橋の芸者から松の位の太夫職、下は宿場の飯盛(めしもり)から湯屋女、辻君(つじぎみ)、夜鷹に到るまで、あらゆる階級の要求に応ずる設備が整っていた。」(中略)こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。
この通人のどこが変かと言えば、まず湯女(湯屋女ではない)がはやったのは江戸時代初期。丹前風呂に有名な有名な湯女・勝山が入ったのはウィキペディアによれば1646年(正保3年)のこと。吉原の松の位の太夫は宝暦年間(1751年から1763年)にいなくなりました。柳橋芸者が誕生したのはたぶん19世紀にはいってからなので、同時にこれらがあったかのような記述はいかがなものか。「宿場」と出てきますが、飯盛女で有名な品川宿は、行政的にはともかくも、普通の感覚では江戸じゃないでしょう。辻君は江戸ではあんまり見ない言葉です。たぶん夜鷹と同じような人を指す上方の言い方だと思います。
語の用例なので内容まで気にすることはないかもしれませんが、書かせていただきました。--ShikiH (トーク) 2014年6月27日 (金) 14:54 (UTC) 用例の差し替えの必要はないと判断された場合も、「こんなのはいずれもうがち過ぎ」以下の部分を追記してくださると有り難く存じます。--ShikiH (トーク) 2014年6月27日 (金) 15:38 (UTC)
ShikiHでございます。私の意見は独自研究なのでそのように扱われるのは当然としても、夢野久作の書きようは尊重したほうがいいと思うので、「又或る通人はこう云った」のところを記事本文に書き足します。--ShikiH (トーク) 2014年7月8日 (火) 08:51 (UTC)