トーク:右顧左眄

最新のコメント:10 年前 | トピック:「左顧右眄」:本来の意味と出典 | 投稿者:青田ミク

「左顧右眄」:本来の意味と出典

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本来は「右顧左眄」ではなく「左顧右眄」であり、出典は三國時代、魏の曹植が呉質(季重)にあてた書簡で、『文選』に収められているそうです。(曹植・与呉季重書:“左顧右眄,謂若無人,豈非吾子壯志哉。”) 。本来の意味は「左を見たり、右を見たりする」また「あたりを見回して得意げな様子」。日本で定着している表記と定義が本来は誤りである旨を出典とともに記すべきだと思いますよ。参照サイト:『成語故事』(左顧右眄的意思_成語“左顧右眄”是什麼意思 - http://chengyu.game2.tw/archives/22681 )、『サーチナ』(「左顧右眄」正解が見つかりました! ことば雑録(30) - http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1202&f=column_1202_002.shtml )。--青田ミク (トーク) 2014年10月11日 (土) 07:28 (UTC)返信

ありがとうございます。断言は控えさせて頂きましたが、ご指摘の件を概ね反映致しました。--Eryk Kij (トーク) 2014年10月11日 (土) 15:42 (UTC)返信
ShikiHでございます。上記の議論と本文を読みました。大変勉強になりました。しかし次の一点は疑問があります。すなわち「「左顧右眄」との取り違えから発生した語である可能性が比較的高い」のところ。取り違えなんだろうか。説明のために「日進月歩」を例にあげます(この四字熟語は本格的にシナ語かどうか怪しいけれども、左顧右眄は変換が容易でないのでおゆるしを)。
日進月歩は、この語順で言うことがほとんどですが、それ以外の語順で言うこともできます。「日月進歩」と言っても同じ意味でしょう。進歩という熟語もあります。それさえ崩し「月進日歩」「月歩日進」だって同じ意味です。単に「日進月歩」と言う慣例があるだけです。さて、だれかが「日月歩進」と意図的に言ったとしたら、間違いでしょうか。まあ、そうだとも、そうでないとも判定しがたい。
左顧右眄も似たような状況にあると思います。顧眄という熟語があります。左右を顧眄するという意味のとき、シナ語では左顧右眄と言うし、日本でも古くはそう言ってきました。右顧左眄は明治以降に見られますが、さて、これは取り違えだったのだろうか。私には判断は付きませんが、安全策を取るなら単に「入れ替わった」と書くのがよいと思いますが、学兄姉におかれてはいかがお考えでしょうか。
なお、左右、右左、両方を言う言葉がないか調べたところ、以下のものがありました。「右輔左弼」「左文右武」。--ShikiH (トーク) 2014年10月12日 (日) 11:51 (UTC)返信
現代の中国語では「眄」のかわりに「盼」を使って「左顧右盼」と言うことが多いようですが、このほかにも「左盼右顧」「右顧左盼」「右盼左顧」「左右顧盼」「顧盼左右」「盼顧左右」などさまざまな変異形があるようです。してみるとShikiHさんのご推測のように、「右顧左眄」は間違い、取り違えというよりは、単に「左顧右眄」の語順が入れ替わったものと考えるのが妥当な気もしますね。
「右顧左眄」ではなく「左眄右顧」ですが、清溪道人という人が書いた東度記という明代の小説に用例がありました。--Ryota7906 (トーク) 2014年10月12日 (日) 16:44 (UTC)返信
 ありがとうございます。お二方のご意見も本文中に反映させて頂きました。言葉選びには入念に入念を重ねた慎重さを以って臨むべし。辞書作りを進めていく上で絶対に欠いてはならぬ筈のものを、またもや私は欠いておりました。現在深く反省致しております。そして新たなる典拠をご教示下さったRyota7906さんにも感謝です。--Eryk Kij (トーク) 2014年10月12日 (日) 18:57 (UTC)返信
ShikiHでございます。Ryota7906さん、ご調査ありがとうございます。おかげをもって、「左右」を含む熟語の語順が流動的であることが実証されました。Eryk Kijさん、(台湾語)“故事成語”のご紹介ありがとうございます。面白く読みました。そうしたら“山珍海味”を見つけたので、少しだけお時間をください。“山珍海味”はちょっとみたところ「山珍しく、海の味す」。なるほど海の味がする山があればたいそう珍しいにちがいない、なんて思う人はそそっかしい。検索結果を見ると「成語解釋 山野和海中出產的各種珍異食品。泛指豐盛的菜肴」(山野および海中に産出するところの各種の珍しい食品。ひろく豊かで盛んなおかずや酒のさかなをさす)。じゃあ「山海珍味」じゃないか。まことに外国語はわかりにくい。--ShikiH (トーク) 2014年10月14日 (火) 05:08 (UTC)返信
青田です。Erik Kij さん、対応ありがとうございます。これは記述に反映されてもされなくても構わないと思いますが、左顧右眄が「得意げ」や「優柔不断」のニュアンス抜きの「左右を見る」の意味で使われている例が日本にもあったので、参考までに転載しておきますね。
まず、乙竹岩造『日本庶民教育史』(目黒書店、 1929年)の p. 445「寺子屋の規模は概して大でなかつたから、管理のごときも比較的簡易であつた。彦根のごとき市街地の寺子屋にあつては師匠は一段高い所に座を占めて衆生を監督した者もある。けれども村落の簡易型のものにあつては、寺子の中央に座して左顧右眄これを教へたものもあった。」
次に、権田保之助『民衆娯楽問題』(同人社書店、 1921年)の p. 336「それから池の端へ出て六区の興行物の軒を列べたあたりへ行つて見給へ。夜目には美事な活動写真館の壁が、所まだらに色が変はつて毒々しい看板がその魅力を失つた様に、ポスターが徒に判じ物の様に列べられてゐるのに出会はされるでしやう。そして其の間を鞄を斜に肩にした学校行きの小学生が、両側の絵看板を左顧右眄しながら、急ぎ足に、下駄を鳴らしく行く有様に接しませう。」--青田ミク (トーク) 2014年10月15日 (水) 06:37 (UTC)返信
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