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:::: 大文字と小文字で意味を違えるのは、貼り間違えかどうかの検証/修正が困難になりますので出来うるならば避けた方が無難かと思います。例えば、[[:Template:Wikipedia]] が [[:Template:wikipedia]] へのリダイレクトになっているからこそ、何も考えずにテンプレートを貼れるのであって、意味が異なると貼り間違えが気付きにくくなってしまいます。subst 推奨の Tl テンプレートで、記入ミスをしてして「<nowiki>{{subst:tl|なんとか}}</nowiki>」とすると、テンプレートへのリンクの挿入するつもりが「タガログ語」と挿入されてしまい、記入ミスをした本人以外の修正がほぼ不可能になってしまいます。 --[[User:Lemonsquash|Lemonsquash]] 2007年11月28日 (水) 02:05 (UTC)
 
== 湯澤大輔 ==
 
'''湯澤大輔'''(ゆざわだいすけ)とは1988年10月4日産まれ東京都葛飾区四ツ木出身の人物で'''東京レッドフェニックス'''の選手であり、音楽業界でも'''Close to fantasy'''というバンドのギタリストである。'''Close to fantasy'''での名前は''Daisuke''である。
 
現在では学生とアルバイト、さらには野球やバンドまでこなす日々が続いている。
 
 
== 愛称 ==
小さなころから小学生高学年までは「''だいちゃん''」と呼ばれていたが、所属していた小学校が合併(後述を参考)したあたりからは「湯澤」になってしまった。今では「''だいちゃん''」と呼ぶ友人は1人ぐらいしかいないらしい。
しかし本人曰く、「湯澤」と呼ばれても自分には「''YUZAWA''」と聞こえるらしい。
 
今でも「湯澤」と呼ぶ友人は数多いが最近では「''ゆざだい''」「''ゆざっちょ''」「''D''」などの愛称で親しまれている。
 
 
== エピソード ==
小さなころ両親が離婚。母親や祖父や祖母の元育てられた。
 
幼稚園はやくし幼稚園で、休み時間の遊びには必ずと言っていいほど戦隊ヒーローごっこなどで遊んでいて、絶対「レッド」の役だったという。
 
西渋江小学校の進学し、その目立ちがり屋な性格はすぐに受け入れられた。
友人と「'''DM'''」という組織を作ると同時に卑劣極まりない才能も開花。
 
小2の頃、友人を鳥小屋に閉じ込め鍵をかけたまま授業に平然と出てたのは有名な話。本人曰く「'''忘れてた'''」。
 
小3の頃、休み時間に行われていた野球で相手チームの一人が買ってきた新品のプラスティックバットで本塁打を打った時に「'''そのバット認めてないから今の無効'''」の一言で試合の流れを変えていた。
 
小4では廃校が決まっていた校舎に24時間テレビの企画が来て、その打ち合わせに来ていたTOKIOの松岡昌宏がいる会議室に勝手に入り「'''野球しようぜ'''」と強気な一言。スタッフに追い出されるところを松岡が「よし、やるか!」の一言で救う。湯澤大輔が松岡昌宏とキャッチボールしたというのは都市伝説でもない事実だ。
 
月日は流れ、5年生になり四ツ木小学校と合併した西渋江小学校は「'''よつぎ小学校'''」になった。
初日の前夜、緊張して眠れなかったせいかいきなり遅刻。全校集会の最中にのこのこやってきた。
 
西渋江時代にでかい態度も通用していたのは少々荒れていた学校で殴り合い解決があったからだが、四ツ木小学校では「いじめ」などがあったため、アウェーを感じ始める。
 
よつぎ小学校での湯澤の性格は全く受け入れられず、葛藤し始める。
 
当時支配権を握っていたのは幼稚園時代格下に見ていた相手で、過去と今との違いに苦悩していた。
 
そして中学への進学を迫られる時期になり湯澤は悩んだという。
 
複数の有名校からオファーがあり、家族も私立に行くことを願っていた。
しかし「'''電車の乗り方がいまいちわからない'''」という理由で地元の四ツ木中学校への進学を決意。この選択が今後の湯澤大輔という男の人生を左右させるものであった。
 
中学進学後、2年間奪われ続けた覇権を奪回。しかし上下関係の前に敢え無く散った。
 
入学後はソフトテニス部に入部。ここで後に欠かせない宇田川智弘・内山堅太・細井涼・尾関智太郎と出会う。
 
最初は後衛をやらされていたが、地味と感じたためポジション変更をアピール。その後前衛になったが大事なところでスマッシュを外し、監督にラケットで頭をたたかれる。これ以降スマッシュボールが来てもボレーに逃げる癖がつく。
 
そんなテニス部時代に終わりが来た。
 
正義感が強いためか、先輩にも文句を言うことがしばしばあった。これが元でみんなに迷惑はかけられないと思い自主退部。
 
2年になりかつての「'''DM'''」のもう一人の頭からバレー部に誘われる。
必要としてくれるならと即入部を決意。引退までやりとげた。
 
高校は私立の岩倉高校に入学。中学時代の夢をもう一度と、テニス同好会に入部も3回で退部。
その後の球技大会でGKを務めた湯澤は好セーブを連発。1回戦・準決勝ともに無失点で決勝まで行ったが敗北。
自分のふがいなさに落胆しているところにサッカー部の監督が握手を求めてきた。「いい試合だったよ。ウチに入らないか?」とオファーを受けたが、その時は断る。その後、校舎で会うたびに誘いを受けているうちに「'''そんなに俺が必要なら'''」とサッカー部に入部。
 
入部して2日目、天王洲で行われた攻玉社戦で速効試合に出された。持前の反射神経で前半を無失点に抑えるが後半に「今日夕御飯なんだろなー」と考えてる間に2失点。
 
入部して3ヶ月後、大量離脱により人数不足に陥ったサッカー部を救うためFWに転向。
最初の頃は慣れずに戸惑っていたが、地元の仲間とサッカーをし、仲間に気を使わないプレイを思い出す。
 
その後の試合では同じリーグの強豪校・正則学園から点を取ったり、飛鳥高校戦でも得点。田無高校からは1試合2点叩き出し、勝利に貢献。キーパーの裏を完全に付く独特な'''アウトサイドキック'''は有名になる。
 
しかしその後、キーパーで入ったはずがフィールドプレイヤーになっていることに疑問を感じ、退部。学業に専念する道を選ぶ。
 
高校生活では主に野球部の生徒と交友を持ち、遊んでいた。
 
とにかく目立ちたがり屋な彼は授業に宮本恒靖のユニフォーム一式をきて受けたり、赤いヒーローマスクをかぶりながら授業を受けたり、10月には学校に下駄を履いていったために校内大騒動になった。すぐに湯澤の仕業だとバレ、指導部送りになった。
 
その日の放課後から、朝8時から8時半まで、放課後は最終授業が終わる2時50分から約40分間、5~6人態勢での正門取り締まりが始まった。
 
ちなみに100年を超える岩倉高校の歴史で下駄で登校してきた生徒は湯澤大輔のみらしい。
 
かねてから大学へは[[青山学院大学]]への進学を望んでいることを周囲に漏らしていたらしいが、本人の偏差値と照らし合わされ大反対を受ける。
仕方なく似合いもしない大学の進路表を手に取り選んだのは[[中央学院大学]]。理由は「'''青山学院に名前が似てるから'''」だそう。
 
AO入試当日まで自己PRカードに手を着けていなく、書いたのは我孫子のバスターミナルのベンチだという。
 
集団面接ではその日までの練習もあってか自信満々で臨んだが「受験番号を教えてください」の質問に呆然。
しかし集団面接の最後な為、前の人から続いてきている番号を答えたら当たっていた。
 
晴れて入学し、今では「'''遠い'''」と言う理由で学業を疎かにしている。
 
 
 
== 地元 ==
四ツ木は彼を語る上で欠かせない街だ。
それ以上に彼は友人に感謝しているという。