トーク:ある

最新のコメント:3 年前 | トピック:2021年10月24日 (日) 02:31 の編集について | 投稿者:Ryota7906

2021年10月24日 (日) 02:31 の編集について

編集

特別:差分/1619555により大幅に構成が変わりました。これまでになかった視点や語義による分類となっており感服させられたところも多いのですが、ちょっと疑問に思う箇所もないでもないので、以下指摘をさせていただきたいと思います。

  • 古典語の用例を混交している点
    たとえば「捨てる神あれば拾う神あり」「敵は本能寺にあり」を用例に挙げておられますが、古典語では有情物(人や動物など)の存在を「あり」という語で表すのはごく一般的ですし、実際「むかし男ありけり」や「朋あり遠方より来たる」など用例は多数見つかると思います。こういったものは「あり」の古典日本語の項目に掲載しておくか、ここに載せるにしても現代語とは扱いを明瞭に分けておいたほうがいいのではないでしょうか。
    古典語の影響の強い「世にある」(「生きている」といった意味かと思います)や「生あるものは必ず死あり」の「生ある」も通常の現代語表現と同じところに組み込んでしまわず別途考慮したほうがよいのでは。また「必ず死あり」のほうは「ある性質や状態を身に備えている」よりは下の方の「現象・動作が起こる」の語義に近いように思います。
    現代語でも有情物の存在を「ある」で表す表現があることを盛り込んでくださったのは見識だと思いますが、これらを「抽象化された人」「具体的な人」「所有関係」に分けた意義にも疑問がありますね。むしろこういった表現は、現代語では「古風」「修辞的」あるいは「慣用的」といった文体上の問題が大きく、人物が具体的か抽象的かはあまり関係ないように自分には感じられます。
  • 存在と所有を構文の違いで表している点
    具体的には「この市には博物館がある」を存在、「この市は博物館がある」を所有の意味に分類していることですが、「には」と「は」の差というよりもむしろ文脈や意味の制約によって語義が限定されると考えたほうがよいのではないでしょうか。
    たとえば「○○市○○地区は市立博物館がある」は存在、所在の意味に解釈するほうが自然かと思いますし、「この自治体には公共施設として博物館がある」だと所有や所属の意味に近づいてくるように思います。
    また親族や友人が所有関係に当てはまるかという点にも疑問の余地はあるかと思いますね。

まだいくつかあるのですが、ここのところ体調が悪いのでまた日を改めたいと思います。--Ryota7906 (トーク) 2021年10月25日 (月) 14:35 (UTC)返信

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