トーク:人間
人間から移動されていますが、漢語ですので「人間」を本項目とし、こちらはリダイレクトにするのが妥当ではないでしょうか。なお人間には「じんかん」(こちらが本来の読みであったはず)という読みもありますね。こうしたばあいもリダイレクトにするのが妥当なのでしょうか。--Aphaia 2005年6月14日 (火) 11:46 (UTC)
「人間」に移動しました。--kahusi - (會話) 2005年6月15日 (水) 20:25 (UTC)
- 各読みからのリダイレクトを作成するのが妥当だと思います。今回の場合で言えば、[[人間]]に「じんかん」についての記述を追加した上で、[[じんかん]]からのリダイレクトを作成することになるかと思います。--NJT 2005年6月15日 (水) 20:29 (UTC)
- 漢語ではないだろうと勘違いしておりました。どうも、すいません。--Cranebb(CraneBB) 2005年6月17日 (金) 05:30 (UTC)
意味3の時は「じんかん」(漢音)と読むような記述ですが、「にんげん」(呉音)と読んでも3の意味になります。本来が仏教語ですから呉音でよいのです。古語辞典でも「にんげん」で立項しているのが普通です。「人間至る処青山あり」も「にんげんいたるところ…」と読んでよいのです。また意味1・2・3それぞれに出典を附した用例を挙げるべきではないでしょうか。--青田ミク (トーク) 2013年6月24日 (月) 07:17 (UTC)
ShikiHでございます。仏教語は呉音でよろしいのですが、普通の漢文ではなるべく漢音で読もうとするのが一般的です。教育勅語の「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の兄弟ですが「ケイテイ」がよろしいでしょう。その理由は仏教語ではないからというよりは、漢文だからです。古語辞典の見出し語は漢文のことはあんまり考えてないように思いますから、古語辞典を参考によみを決めるのはいかがなものか。いろいろ考え方はあろうと思いますが、ウィクショナリでは普通をただ一つ示すのがいいと思います。すなわち「じんかんいたるところ」のみ。--ShikiH (トーク) 2013年6月26日 (水) 16:34 (UTC)****追加 この漢文の先生も私と同じ意見です。あたりまえだけど。大修館国語情報室塚田 勝郎。--ShikiH (トーク) 2013年6月26日 (水) 16:46 (UTC)
ShikiHでございます。にんげん、と訓んでも、じんかん、と訓んでもよい用例を使うから問題になります。まず、じんかん、としか訓まないだろう用例に変更しました。--ShikiH (トーク) 2013年6月27日 (木) 14:38 (UTC)
- 青田です。私の書き方がまずくて誤解してらっしゃるようです。古語辞典も国語辞典も「人間(にんげん)」で立項して、意味3の場合は「じんかん」とも読むことを示しているということです。ウィクショナリーも両方示せばよいでしょう。そもそも呉音があって後から漢音が入ってきたわけですから、上の人が誤解しているように「ジンカンが本来の読み」ということはありませんし、漢文先生が漢文を読むときに呉音を避けて漢音で読みたがるからと言ってそれに統一するいわれはありません。漢文先生は儒家の子孫だから仏典は自分の考える「漢文」に含めないのでしょうね。そのせいか、一部の漢和辞典は意味3の人間をジンカンとしか読まないかのような記述になっていますが、信ずるには値しません。実際は昔から両方の読みがあったのですし、むしろニンゲンのほうがふつうだったからこそ、人類・人格という意味での誤用がニンゲンという音に対してのみ定着したと考えられます。その結果、ジンカンと読んだほうが本来の意味で伝わりやすいという逆説的状況になっているのは確かです。とはいえ、昔の人が人間(ニンゲン)を「人の世」の意味で使っていた事実は変わりません。現代人が幸若舞の「敦盛」を舞うときも「にんげん五十年、下天のうちをくらぶれば」でありますし、高良大社蔵『平家物語』にも「人間(ニンゲン)のあだなるならひは、今更おどろくべきにはあらねど」とルビが振られています。これをジンカンと読むわけにはいきません。漢文先生だって倶舎論の「人間五十年、下天一昼夜」は「ニンゲン…、ゲテン…」と呉音で読むでしょう。--青田ミク (トーク) 2013年7月4日 (木) 10:54 (UTC)
- ShikiHでございます。「世の中」という意味で人間という語を使うときに「にんげん」「じんかん」いずれの可能性もあるとは思います。「じんかん」が本来の読みだと考えているわけではありません。だから本文に語釈だけしかなければ、「じんかん、にんげん」の両方をのせて、何の問題もないと考えます。問題は用例を添えた時に生じます。「人間到る処青山あり」は漢詩の一部と感じられるので「じんかん」がよいだろうと私は言いましたが、あくまでこの用例についてのことです。『敦盛』と『倶舎論』についておっしゃっていますが、私にも異論はありません。「人間万事塞翁が馬」は私も「にんげん」とよみます。にんげん、が人の世という意味でもあること全般について異議を唱えたのではありません。--ShikiH (トーク) 2013年7月4日 (木) 13:44 (UTC)
- すいません、ひきつづきShikiHでございます。追加いたします。私の考えは上の通りですが、「人間到る処青山あり」は「にんげん」と訓む人も多かろうと思ったので、用例をすでに差し替えてあります。ご確認ください。ただ、この例もいささか疑問ではあります。--ShikiH (トーク) 2013年7月4日 (木) 13:51 (UTC)
- 青田です。言わんとされているところはわかりました。私が言いたいのは、今のウィクショナリーの記述では意味3のときはジンカンとしか読んではいけないように見える、ということです。実際そうだと信じている人も見かけます。「問題は用例を添えた時に生じます」とShikiHさんはおっしゃるのですが、一つの語釈に複数の用例を添えてはいけないのでしょうか。ニンゲンと読む用例、ジンカンと読む用例、どちらとも読む用例、三つとも示してはどうでしょうか。--青田ミク (トーク) 2013年7月8日 (月) 07:59 (UTC)
- ShikiHでございます。ご意見の前半については、私はちょっと感じ方が違います。ウィクショナリは現在のところ書きかけの項目がとても多い。漢字の意義など、たったひとつしか書いてないものがたくさんあります。この時読む側として私は、投稿者が他の意義を知らないのだとか、この意義だけに限定すべしと主張しているとか、そのようには考えません。記事がないよりは、未完成のものであっても、あったほうがよいと考えて途中経過を投稿したのでしょう。
- その場合、あとで自分で書き足すつもりというよりは、他の投稿者が書くことを期待しているのかもしれません。そのことも含めて、ご意見の後半はその通りだと思います。よい用例が三つ見つかれば、青田さんの主張のごとくお書きになるよいと思います。--ShikiH (トーク) 2013年7月9日 (火) 07:19 (UTC)
- 青田です。わかりました。ウィクショナリーは編集したことが無いので、中心的な投稿者がいるなら、自分は意見するだけにしてその人に任せようと思っていました。自分で書こうと思います。長々とお付き合いさせてしまって申し訳ありません。--青田ミク (トーク) 2013年7月10日 (水) 07:41 (UTC)
- ShikiHでございます。「じんかん」とよむべきか「にんげん」とよむかべきは、ある程度長さがないと判断しにくいと思うので、引用を長くしておきました。また、高良本にルビがある旨、明記しました。
- 上記の文章を読みなおしました。漢和辞典への言及がありますが、ご発言をわたくしは次のように解釈します。「一部の漢和辞典は意味3の人間をジンカンとしか読まないかのような記述になっていますが、(漢和辞典はあくまでも漢文や漢文区訓読を説明したものであって、それ以外の和文は視野に入れてないことが多い。だから漢和辞典の記述が直ちに日本語にあてはまると)信ずるには値しません」。おっしゃる通りだと思います。--221.248.78.33 2013年7月25日 (木) 07:32 (UTC)
- 青田です。上のほうで「本来は仏教語」と私が書いたのは正確ではありませんでした。「人間」は漢語として古くからあり、仏教語「人間道」「人間界」などを通じて日本で広まった、ということです。どうして「人類」の意味に誤用されるようになったかについては見当がついていますが、独断になりそうなので書くべきか迷っています。 ◇また「ルビ」は印刷の用語なので「フリガナ」と書くべきでした。 ◇余談ですが、国語辞典・漢和辞典を何冊か引いてみて「人間」の項のデタラメな記述に驚いています。「『間』は人の『関係』」だの「本来はジンカンと読む」だのと書いている国語辞典が実際にあるんですね。また某漢和辞典は「『間』は『仲間』の『間』」「仏典で『人間』を『人類』の意味で用いた例がある」というようなことを書いていました。世の辞書がこうでは議論が混乱しても仕方ないと思った次第です。--青田ミク (トーク) 2015年3月7日 (土) 06:15 (UTC)